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「夜叉桜」 あさのあつこ
2010 / 05 / 07 ( Fri ) 19:10:55
弥勒の月』の続編です。

今年の春はお花見の機会を逸したけれど,
見事な桜を堪能した…ような気がします。


★★★★☆

「生きるという、ただそれだけのことが何故にこうも不自由なのかと、思うことがございます」江戸の町で、女郎が次々と殺されていく。誰が、何のために?切れ者ゆえに世にいらだつ若き同心・信次郎は、被害者の一人が挿していた簪が、元暗殺者の小間物問屋主人・清之介の店『遠野屋』で売られていたことを知る。因縁ある二人が交差したとき、市井の人々が各々隠し抱えていた過去が徐々に明かされていく。生き抜く哀しさを、人は歓びに変えることが出来るのか。 (Amazonより)



このシリーズ,岡っ引き・伊佐治が登場する限り,読み続けたいと思います。


            


この作品,物語の底には「人は変われるのか」というテーマが流れていたように思います。

人との出会いによって穏やかになった,年を経ることで丸くなった,
というような「変化」ではなく,
今までの人生を全部捨てて,生まれ変わることができるのか。

という意味合い。

おりんとの出会いによって,人斬りの人生を捨て,商人の道を歩もうとする清之介。

「本来の姿を変えられるわけがない」と思いながらも,
もしかしたらと清之介から目を離すことができない同心・信次郎。

そして,その2人をはらはらしながらも,「人ってえのはおもしれえ」と見守る岡っ引き・伊佐治。

私もまたここ数年,とても物騒な言い草ながら,「(物語において)性格破綻者は死ぬしかないのか」というテーマを引きずっていたりして。
なので,ちょっと重なるところもあるのかなぁと,この物語の行く末が気になったりもします。

それはともかく。

伊佐治のつぶやきが何ともまっとうで,あまりにまっとうすぎて,,,,読者にまっすぐ届きます。

…えーーーーーーと。。。。。実はこの作品,読んだのは2週間以上前です。
なので,これから私とご一緒に,そのとき貼った付箋箇所を読んでみましょー(^^;)

 心もまた生身と同じで傷つけられれば血を流すのだ。流れ出た血の味が,身体の奥から滲み出す。苦い。それまで,1人で耐えてきたことがどうしても重くて苦くて,持て余す。(おいとちゃん)



 伊佐治は人としてまっとうに生きていたいと願っている。他人を愛しみ,子を養い,女房と生きる。そんな人間でありたいのだ。
 遠野屋といるとそこが揺らぐ。人という生き物の底知れなさに冷や汗をかくのだ。
 危ない男だった。


 
 

怖えこった。
 人の抱える闇は底無しだ。己が掘るのか神が穿つのか,人の内にはひどく深い穴があって漆黒の闇が溜まっている。大概の者は,そこへ足を踏み込むことも,そこを見つめることも,そこに気づくことすらなく過ごしていける。大概の者は。大概の枠からはみ出して,闇の溜まりに腰まで浸かった者がいる。闇そのものをずるずると引きずりながら歩いている者がいる。



人の心と人の身体は密に繋がっているものだ。好けば軽やかに動き,忌めば滞る。……商いもまた,生きて人の心と繋がっているのだ。



 人は臨終の一瞬まで,心に生傷を負うて生きていく。知らぬ間に治る傷も,生涯疼き続ける傷もある。目に触れないだけに厄介なその傷を,自分の物も他人の物も労って生きねばならない。それが世道(せいどう)と言うものだ。伊佐治は固く信じていた。


 
 

人ってなぁ,変わることができるもんなのかねぇ。
 闇溜りに沈もうが,どっぷり浸かろうが,人はその心持ちで這い出すことができるのか。闇から這い出し,白日の下で生きて,生き続け,穏やかに老いて,穏やかな死を迎えられるものなのか。
 そうであって欲しいと思いながら,人はそう簡単に変われるものじゃねえよと呟く声に肯いそうにもなる。肯いたくはなかった。伊佐治は人を信じたいのだ。



 遠野屋,振ったさいころの目は二度と元には戻せねえよ。足掻くな,足掻くな。どう足掻いたって,無駄なこった。
 あからさまな揶揄を含んだ声だ。
 木暮信次郎か。(遠野屋)



 人は一人一人,違う顔を持ち,別個の人生を過ごし,異なる気質を有している。その反面,どこか似通ってもいる………人と人は重なり合う部分があるものだ。黒と白のごとく相容れなくもあり,紅と朱ほどに肖似(しょうじ)でもある。(遠野屋)



 思いもかけず,心地よい風を感じる。心が風に乗りさらに浮遊する。浮遊の感覚は未だ知らぬものへの憧憬へと結びつき,快感へと変わる。…もしかしたら,人はこういうものを希望と呼ぶのかもしれない。それはまだ淡く形さえ朧であったけれど,儚くはない。心底に根を張って明日へと誘う。(遠野屋)



 弱えほうが,ようござんすよ。
 伊佐治が傍らで囁いたような気がした。
 強がってみたって,いいことなんてありゃあしません。あっしはね,強え人間ってやつがどうにも信用できねえんで。弱くて,情けなくて,自分にすぐ負けそうになっちまって,ぐずぐずぐずぐず足掻いている。そんななつの方がいざとなったら信じられる気がしやす。遠野屋さん,あっしも遠野屋さんも弱くていいじゃねえですか。



 弥勒にも夜叉にも,鬼にも仏にもなれるのが人なのだ。身のうちに弥勒を育み,夜叉を飼う。鬼を潜ませ,仏を住まわせる。

 

 人の明日ほど危ういものはない。命も日々の暮らしも人の繋がりも明日には露と消え失せることもあるのだ。……………明日は危うい。奈落に落ちる穴はどこにでも拓いている。自分たちの運命などいとも簡単に捻じ曲げられ,折れ,砕かれてしまう。だからこそ,今手にしている幸福を愛おしまねばならないのだ。



 人が良いばかりでは,商人は務まらない。しかし,根となる場所に善良な質がないと,真の商人にはなれない。



 「今のこの日々は,人として生まれたからにはおもしろく生きてみろと,女房が手渡してくれたものでございます。その遺志に背く気はさらさらございません。そう,女房が命がけでわたしに遺してくれた日々の暮らし,おもしろうに生きねば罰が当たりましょう」
 口にしてみて,清之介は心の一隅がすっと晴れる思いを味わった。…………こんな暮らしがあったのだ。



 人と人との関係には,いつだって何だかんだといざこざがついて回る。ついて回りはするが,どんないざこざであったとしても,根っこさえしっかりしていれば乗り越えられるものだ。伊佐治はそう信じていた。



 弥勒にも夜叉にもなれるのが,人という生き物なのだ。ときに弥勒,ときに夜叉。いや,仏と鬼の真ん中に人はいる。それはまた,仏でもなく,鬼でもなく,仏にもなれず,鬼にもなれず,人は人としてこの世に生きねばならぬということなのかもしれない。



書き出してみると,「物語の底」などというものではなく,結構直球で「人は変わることができるのか」と,何度も繰り返し出てきますね~(^^;)
また,書き出してみて初めて気づいたことですが,あさのあつこさんという方は,とても語彙が豊富です。
やりすぎると,くどい感じや,作者の言いたいことがダイレクトに伝わらないモヤット感が生まれるけれど,
少しずつ表現を変えて繰り返すことで,複雑な色合いや深みを出すことに成功しているような気がします。
私は根が単純なタチなので,その複雑な味わい深さに十分感応してはいないんじゃないかと思うけど,
読み終わって,ただ漠然と「いいものを読んだ気がする…」と思えるのは,
あさのさんならではの表現力のなせる技…なのかもしれないなぁと思ったのでした。


そして,書き出してみてやっぱり初めて気づいたことですが。(なんかイロイロと遅い^^;)
この作品,「人は変わることができるのか」というテーマではあるけれど,
遠野屋さん(清之介)は,もう変わっているのよね。
で,変わった自分とそれ以前の自分,どう折り合いをつけていくのか…というお話のような気がしました。
私が読んでみたいと思っている,「罪の意識もない人間が罪の意識を持つ瞬間」や,そのきっかけとか,心的混乱の落ちつけどころとか,そういうのとはまたちょっと違うんだな…という気が。。。
ふむ。なるほど~。と思ったのでした。

このシリーズ,ゆっくりじっくり読んでいきたいと思います。


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